ぺりグ

ゲーム楽しい脳溶けるゥと蠢くブログ

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ロックマンエグゼアドコレが楽しみで仕方ない男

※blogだと読みにくいと感じる方はこちらをご覧ください。ちょい足しもあります。

note.com

 

いまでもボクらは、つながっている!

 

 

というキャッチコピーで、もう泣けるんですが。

ロックマンエグゼアドバンスドコレクションが出ます!

発表になってから今か今かと待ちわびた本作。

エグゼはどうしてもプレイしたかった作品。しかし絶対ドはまりするだろうと思ったため、アキバの中古ゲーム取扱店を練り歩くことはしなかった。シリーズすべてを買い集めてしまうだろうと思ったためだ。流通価格がどれだけインフレしようと。

だから、待った。

これだけの快作だ。シリーズ自体が一気にリメイクされるに違いない。そう信じてる。ボクはそう信じてるよ、熱斗くん!

と心の中でつぶやき続けて幾星霜。

ついに、ついにキタ。

エグゼがキタァァァァァァァァァ!!!!

 

筆者は、ロックマンシリーズが最も小学生時代にハマったゲームだ。と胸を張って言う。

ドラクエではない。

(そもそもドラクエは流通タイミングと親の教育方針のせいで入手できず、ドラクエⅥのVジャン攻略本を読みながら、空想でプレイしていた。もし買ってもらえることになったら、主人公は勇者にしたいな、ハッサンはやはりバトルマスターだな!と自分をなぐさめたものだ)

 

ロックマンの「きみの考えたボスキャラ」に応募し、見事に落選したものの、応募者全員特典で頂いた非売品CD(当時まだ8cmCD)を本当につい最近まで30年間手放さなかった。

それくらいにロックマンを愛していた筆者が、どうしてエグゼをやってこなかったのか……?

 

「時代が合わなかったという他ない」

エグゼシリーズの第1作が登場したのが2001年。

わたしは、もう中学生だった。

もう中のように、虫取り網を抱えて甲高い声で、セミを追いかけていられなかったのである。コント「紙芝居」と右手をつきだして、少々お待ちを〜♫ためになったね〜ためになったよぉ〜♫と軽やかなスキップは、もはやできなかった。

いつまでもロックマンとつながってはいられなかったのである。

当時、中学生でゲームをやってるやつはオタクだ!と叩かれる風潮があった。

じつはこっそりやっていたのだが、クラスメイトのゲーム好きと話を合わせるためには「小学生向け」より「中高生向け」を選ばねばならなかった。

オタクでしかも、ゲーオタとも話を合わせられない孤高の男子中学生は、机の上に花びんを置かれていてもおかしくなかった。

だからわたしはもう中魂を売った。売らざるを得なかった。

 

成長し、自分で自由にできるマネーが得られるようになってから、わたしのもう中魂が再燃するまで、ロックマンと向き合っていなかった。

あんなに熱いパトスを叫びながら、ときには理不尽なステージにコントローラをぶん投げながら、ぶん投げたせいでコードがびんッとなり、パスワードをメモする前のデータに送還されたりしながら(ファミコンは本体への急激な振動などにすごく弱い)、熱く、熱く向き合ったロックマンなのに。

気がついたら、エグゼシリーズは完結していた。

 

そんな、大人になるにつれて忘れていかざるを得なかったアツい冒険の日々。

なんとわたしも子を為した。

これからもっともっと子どもの気持ちには戻れなくなるだろう。(いや、子どもと一緒になって体験していれば戻れるかもしれない)

 

 

兎にも角にも!筆者は、アツい冒険に旅立つ!旅立つと決めたのだから、もう誰にも横槍を入れてほしくない!そもそも誰かに横槍を入れられたわけではないのだけど!

よし、ではあと5日も我慢できそうにないので、エグゼの設定やリード文を読んで、思いを馳せることにする!幸い、空想でゲームをプレイするのは得意だ!

 

第1作「ロックマンエグゼ」は2001年3月に新たなロックマンシリーズとして誕生しました。

ネットワークが高度に発展した近未来を舞台に等身大の主人公が織り成す冒険、そしてカードバトルの戦略性とアクションの楽しさが融合した“データアクションRPG”の新しいゲーム性が当時の子供たちの心をとらえ、人気シリーズとなりました。

また、「ロックマンエグゼ」はコミック連載、さらにはTVアニメーション化され、大きな反響を呼びました。

 

ロックマンエグゼ”の世界

200X年、インターネットの急速な発達によるネットワークの時代。

人々は「PET(ペット)」と呼ばれる携帯端末と、人格を持ったプログラム「ネットナビ」により数々のネットワーク技術の恩恵を受けられるようになっていた。

しかし、生活が便利になっていくその一方で数々のネット犯罪もまた、引き起こされていた。

主人公の“光熱斗”とそのネットナビ“ロックマン”は力を合わせて数々の事件に立ち向かっていく。

 

ロックマンエグゼ公式サイトより

https://www.capcom-games.com/megaman/exe/ja-jp/

 

きっとここまで、引用まで読んでくれた方は、エグゼという作品を知らなくても、「え、こんなゲームでしかあり得ない世界って実現されつつあるじゃん」ってことに気づいたと思う。

エグゼは2001年の作品だ。

いまは西暦2023年。劇中の200X年…というくだりは、10年も経てばドラえもんが現れるよねという、平成特有の未来神聖視から来ている気もするが、22年経って、ようやくエグゼ世界の取っ掛かりに足を踏み入れたくらいの進歩度だ。

平成前期の未来への強烈な憧れが具現化した世界ではあるのだが、現実問題、当時からインターネットの犯罪は問題視されていた。ただ、ここまでの「PET」=「アバター」らしさはなく、現実のさまさまな機能がデジタル化しているわけでもない。

エグゼの世界では、他の人がやっているのをのぞき見する限り、アバターのいる電子界と本体のいる現世がリンクしている。

アバターで何者かが悪さをすると、現世に影響がある。交通網がめちゃくちゃにされたりした映像を見たが、あれは、信号機は電子界で制御されているから起きた事件だ。

信号機の赤と青の切り替わり一切を、電子界だけで制御しているので、管理はしやすいかもしれないが、ひとたび制御系統がイカれると、すべてが狂ってしまう。たったひとつの信号機の乱れから、世界が壊滅してしまうかもしれないのだ。

「つながっている」

という言葉の表現は、あたかも光熱斗ロックマンの絆をあらわしているようで、大変心に響くが、制作陣は世界の不安定さと掛けて揶揄っている可能性も否定できない。

マイナンバー制度、メタバース、DX。

日本のみならず海外でもデジタル化の流れはとどまることを知らない。コロナウイルスが人間の進化を促したというのは邪推な気もするが、エグゼのような世界の実現はもう目の前まで迫っている。(ウイルスによる人類の危機と進化の歴史とでも、検索をかけてみてほしい)

さまざまな要因が折り重なって、現在2023年は、昔に比べて、人間ひとり生きていくのも難易度が高い。人が増えにくくなる兆候が、未来予想図でも出ている。

そうなれば、管理は絶対的にしやすい方がいい

 

ロックマンがロボット工学と電子工学でシリーズ分岐をしたというのは、ロックマン好きの間ではお茶漬けはゴハンにかけるというくらい当たり前のことだ。

もちろんさすがにここまで読んでくれたあなたは「当たり前だな」とうなずいてくれているという前提で話をするが、あ、いやわたしはエグゼは未プレイなので、にわかファンなのだけれども?

ここで言うロボット工学と電子工学とは、ロックマンの世界とエグゼの世界と言い換えていい。

ロックマンの世界は、ライフラインなど生活の基盤となるものをロボットが管理している世界。

エグゼの世界は、生活の基盤を電子界というかネットワーク上で一元管理している世界。

これはどちらも未来を描いた学者たちによる、人類の衰退を意味している。

先程の信号機を例に見てみよう。

信号機を管理しているのは、今現在、人間の手によるものだ。信号機の表示がおかしくなってしまったら、人間がその信号機を治す。

これが、ロボットに置き換わる。それがロックマンの世界。

信号機一本ずつではなく複数おかしくなっていても、どんなに管理センターから離れた場所にあっても、ネットワークを介して修理できる。それがエグゼの世界。

いづれの世界も、ロボットが、ネットワークが異常をきたせば事件が起こる。それがどちらのシリーズでも導入として描かれているはずだ。つまり危険を孕んだものですよ、ということ。もちろん、現実が危険を孕んでいないわけではない。人の手によるから安全性は高い、と思いたいがヒューマンエラーは突然起こる。

事件の発生源が違うだけで描かれている人間世界の本質はいづれも同じと言える。

そしてロボット工学、電子工学ともに、本来人間が担える部分が置き換わっている。

 

現実世界ではロボットの進歩もネットワークの進歩もめざましい。

人類はロックマンと同じように岐路に立たされているのかもしれず、どちらも選択できる未来があるのかもしれない。人口減少を補うラインを分担するなどして(人間の手に委ねる部分は残しながら、一部をロボット、一部をネットワークに管理を任せるといった具合)

補い合っていけるのならばそれに越したことはないが、極端な変化を嫌うのは人間の性質なので、実際にエグゼの世界がやってくるかというと、それは否だ。

けれどエグゼの世界に近しい未来はやってくると断言できる。

 

そういう進化をできると、人間の格差が埋まり、ある側面において、よい効果をもたらすからだ。

VR技術やネットワーク管理技術が発展すれば、人種や体格、身分や環境、あらゆる格差に対してノーマライズできる。

人間は平等か?人間は自由か?と言われると答えはノーだ。絶対的な定義はできない。

しかしあらゆる格差がまっさらになったとき、人間は本当の意味で平等と自由を手にできる。

ということが、誰でも分かっているので(当然、実現には取り除かなければならない障害が山ほどある)エグゼ世界の未来を目指したとき、そこに対して非を唱えるひとは、あー、割と少ないんじゃなかろうか。(日和った)

ただバーチャルユーチューバーをここまで受け入れられる人種だ。日本ではきっとそんな未来が訪れても不思議はないと言える。たぶん。きっと。メイビー。

 

ただしこれは、エグゼを制作した方々の、危険視も同時に内包している。

すべてがつながることで、ひとは心強く生きていけるのかもしれない。しかし、つながってしまったことで、多くの不便も顕在化し、悲しい事件もまた……光あれば闇が生まれる。

どんなひとでも平等に、一歩ネットワーク上へ足を踏み入れれば、無限の可能性が広がっている。容姿の良し悪しも、お金のあるなしも、身体の自由不自由も、そこではすべてがゼロベースとなる。まさにユートピア

しかしそれでは人間がこれまで進化してきた、繁栄してきた背景が、根底から覆るのではないだろうか?果たしてそんな未来を手にしたとき、人間は、人間でいられるのだろうか?

すべてがゼロになってしまっても、良いのだろうか?

 

どうでしょうか?

とりあえず、空想でゲームをプレイして抱いた感想を言語化してみましたが?

深く広くなってきてしまったので、荒唐無稽でまとまりがなくなってきた考察は一旦手を止め、ここから先は、実際に己の目で見て感じたことを言葉にしていきたいと思います。

https://youtube.com/@Rockmanyaruo