ぺりグ

ゲーム楽しい脳溶けるゥと蠢くブログ

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天命を果たした男‐余生のススメ‐

楽しいことを探すというのは、宝探しに似ている。

ちょっとした通話の中で、ぺりさん(筆者)が、ぽっと言った言葉が妙に心に残っているので、ご紹介したいと思います。

その通話のなかでぺりさんは、自身の37年(?)38年(?)……え、いま何歳だっけ?……まあいいや。自身の半生を振り返って、「あたしの生まれてきた意味は35……4?36?(覚えてない)のときに果たされた」と言った。

「五十にして天命を知る」と、孔子が晩年を振り返って言った言葉がある。

『五十にして天命を知ると言うだろう?』と以下のサイトで例文がついていたが、30代にして天命を知り、果たしてしまったと語るぺりさんの天命とは果たしてこれなのか?という疑問は湧き上がるが、本人的には「生まれた意味はこれなのだ」と言って聞かないので、まあ本人がそう言うならそうだということにしておこう。

五十にして天命を知る - 故事ことわざ辞典

つまり、何が言いたかったかというと、ぺりさん的にここから先の人生は「余生」だと、そういうことらしい。

イマから先、70くらいで大病せずにさくっと死ねるとなると、もうあと30年くらい。つまり半生。それが丸々、「余生」と信じてやまないぺりさん。

『ぺり曰く、吾三十五にして天命を知り果たせば、後世長きにわたり惑わず心健やかなり』

とか何とか言って、悦に浸っている。

あたしは孔子よりも先に不惑の念を得たり。

とか言って、ふんぞり返っている。

迷わないのはいいことだと思います。そりゃあ世の中迷った方がイイ選択をできることもありますが、迷わないなら迷わないに越したことはない。仕事でもプライベートでも。

迷えば迷う程、ドツボにはまっていくという案件は、ありふれていますからね。

ゆえに、無敵。

ぺりさんは、向こう30年、死が意識を刈り取るまで、何がきても「余生だから」で跳ね返す、鋼の精神を得ている。ということ。

そう聞くと、ちょっとうらやましくもなりませんか?(もはや自分で自分のセリフを分析している時点で、いま書いているこの手は、脳は、俯瞰で自分を表現しているのか、冷静に分析しているだけなのか、視点がわけわからんタスケテ)

けれど、そう楽観できるものでもなくて。

 

 

 

いわばようやく、ここからが本題なんですが。

「余生」という言葉から、どんな人間を想像しますか?

……いや、言い方がわるかったですね。

余生という言葉で自分の心を纏う人間は、どういう人間だと思いますか?

単純に、自分のこと可愛さに、己の身を守りたい一心で、精神の安定のために、「これは余生」「これは余生」とかって言い聞かせているケースもありますでしょうが、そうではなく。

たとえば、仕事を定年退職して、年金暮らしを始めた方のような。セカンドライフを楽しもうかな、そろそろ。とか言い始めている人を想像していただくと分かり易いかもです。

ちょっと、社会という新幹線のレールから一歩脱落したような、いやもうあたしはドロップアウトした人間なんで、と。ある種、諦観した、というか解脱したというか。あ、そうです。

解脱(ゲダツ)です。

現代社会からの解脱。

そんなイメージを抱いたりしませんか?「余生」って。

だから、こう、「お勤めが終わりました」感というか。そういうのを、感じますよね?

心に余裕を持った、無駄なぜい肉のない、研ぎ澄まされたシャープな雰囲気を纏っていそうです。

 

ただ……弊害もあります。

それは、心が解脱しすぎること。

心ここにあらず、というか、人の心をどこかに置き忘れたようになってしまいます。(個人差はあります)

それはそう。

だって、仏になるんだもん。解脱っちゃあ、そういうことでんがな。人の心を置き忘れたというか、心が神聖に昇華されてしまったというか。この世の些事に左右されないとはこういうことか、と。

己がだんだんと、不感動になっていく。

何に触れても、心が動かなくなってくる。

心が動かなくなると、楽しいことが、楽しくなくなる。

そう。

楽しいことに触れても、自分が楽しいと感じなくなってしまう。

これは由々しき弊害です。

心が無敵になるかわりに、その心は頑なになっていく。

まるでアストロンだ。

【アストロン】 - ドラゴンクエスト大辞典を作ろうぜ!!第三版 Wiki*

 

そんな、アストロン化して斬撃体技呪文ブレスの一切を寄せ付けない、ぺりめには思った。

ゲームマンガ特撮アニメなどなど。

自分が「面白い」「楽しい」と感じるすべてのものが無意味になる人生、いや「余生」なんてイヤだ!と。

これが大人になる……ってコト!?

いやいやいや、永遠の少年でいたい!

 

イヤだからな!ああ……ぺりめには、「余生」に差し掛かって、子を持ち、創作物のすべてが究極お金に見えてくると、とたんにエンタメを「楽しめなく」なったんだね。ようやくオタク少年も大人になったのね。

そんなことを傍から言われるのは、心外です

大人になったなんて、ぺりさんが「人生でもっとも言われたくないフレーズ第一位だからね!?

いかにそれが「余生」だとしても言われたくない!

そう感じたぺりさんは、ここ最近、「楽しいことを探すことを楽しんでいました」。

 

……なにか、腑に落ちない顔をしていますね。

ニーチェの謎かけじみた名言のような、腑に落ちなさが顔ににじみ出ていますよ。

「ぼくは今、何もしないをしているんだ」に通ずる節がありますね。でもま、簡単な話なんで一語一語、解法していきましょう。

「楽しいことを探す」とは、自分が何も楽しめなくなったアストロンの心臓でも、わくわくする、楽しいぜコレぁ!って頑なな心を溶かしてくれるような「何か」を探すということですね。何でもいいんです。サブカルじゃなくたっていい。

それはさながら、幼少のみぎり、市内じゅうのゲームショップをチャリンコで駆けずり回って、寂しいお小遣いでも買える「最高の一本」を探した、あのわんぱくさのようです。

当時はまだまだ個人経営のゲームショップが多数存在していて、価格競争なんかも激しく、どのゲームを仕入れるか、で他の店と優劣を競っていた時代でした。もう近頃はそんな店、淘汰されてしまいましたが。

スーパーファミコンのゲームは本当に高くて、一本1万円とかザラでした。あの頃のお小遣いで買えるのは、3,4カ月に一回くらいのもの。それまで駄菓子を我慢して貯めた資金をゲームソフトに使う。

だから何とも悩ましいものでした。少しでも安く、少しでも面白いゲームを、そう心に胸躍らせながらペダルをこぐ。

なんて、楽しい時間だったろうと思います。

そんな少年心を思い出しながら、感情が揺れ動く「何か」を探す。簡単な話です。楽しもうと思えば、楽しめる気持ちを、思い出を、ぺりさんはもう、持っていた。

だから最近は、「あれやろう!」「これやろう!」と「楽しみ」が目白押しです。

 

perig.hatenablog.com

 

昨日はこんなことを書きましたが、楽しみなことばかりですよ。世の中には。

そのときの通話でも、そんな感じのことを言って、ドヤ顔してた気がします。

 

えー、ね。

それではみなさんも、何か大きなことを成したなと、感じたときはそっから先は「余生」だと胸に抱いて生きていきましょう。

心に余裕を持てたり、精神的に安定できたり、激ヤセできたり(虚偽)、いいこと尽くめですよ。

 

〈でも楽しいことだけには、不感動だともったいないですよ。というお話でした〉

 

 

 

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